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君島大空 合奏形態 夜会ツアー 2025『春を前にしての歓喜の実践』Zepp Hanedaライブレポート




「平気?」と聞かれて「うん、平気」と答えたが、本当は平気じゃなかったことがたしかに私にはあった。振り返れば、あの時たしかに私の中にあったのは「怒り」と呼びうる感情だった。私は怒っていた。それでも、「そういうものだから」と薄ら笑いを浮かべて怒りを隠したのは、怒ったあとに人は寂しくなる、ということを察知していたからだろうか。それとも、さらにそのあとにくるであろう「なぜ許せないのか?」という自問自答が煩わしかったのだろうか。「自分は強い側にいる」という幻想に噛り付いていたかったのか。むしろ加害者は自分かもしれない、という不安からか。なににせよ、愚かにも寂しさを恐れ、悲しみを恐れ、孤立を恐れ、たしかに自分の中にある怒りをなかったことにしたことが、私にはあった。



4月17日、Zepp Haneda、君島大空合奏形態のワンマン。ステージの上にさらに4人分の簡易ステージを設置したような、不思議なセット。通常のステージよりもさらに高い場所、つまり「見られる」ことも「見る」ことも覚悟した場所に、君島大空は自らの怒りを、孤独を、隠さない表現者として立っていた。アンコールの最後で“沈む体は空へ溢れて”を演奏する前に、君島は「なんの前触れもなく、どこか遠くに行ってしまう人に怒りを抱きながら、僕は音楽を作ってきたなと思います」と、ぼそぼそとした口調で言った。感情が溢れるライブだったが、彼は感情を支配のために利用するようなことはしなかった。観客を負の癒着に巻き込むこともしない。そこに彼のギリギリのバランス感がある。




ライブを観て、冒頭に書いたように「怒り」に思いを巡らせたのは私の勝手な妄想のようなものなのだ。「何故、怒りをなかったことにするの?」「何故、悲しみをなかったことにするの?」「何故、あなたはあなたの孤独から目を逸らそうとするの?」そう突きつけられたような気がしたのは、私がひとりの観客として、彼の音楽から勝手に聴き取った「声」がそう言ったような気がした、というだけのこと。しかし君島は、観客一人ひとりがそれぞれの歴史や孤独を覗き込んだ先に辿り着く場所で、目を合わせたがっているように私には思えた。音楽に体を浸しながら、自分自身を、自分がいる世界を、たどっていく。「祭」とはそういうことなのだ。厳しい優しさがそこにはある。



君島大空合奏形態は、相変わらず凄まじい高揚感と深い沈黙を、その演奏によって生み出していた。ライブを観ていると、彼らは今この世界で誰よりも騒々しく、誰よりも静かな音楽を奏でているような気がする。ライブは君島の弾き語りによる未発表曲から新作EP『音のする部屋』の1曲目である“除”へと接続される形で幕を開けた。まるで濃霧のように深く立ち込め、そして、それを切り裂いて降り注ぐ眩い光を感じさせるようなサウンドコラージュ。さらに私にとっては強烈にコロナ禍の記憶と結びついている楽曲“火傷に雨”の、ドラムンベースのような性急なビートとダイナミックなギターサウンドが混ざり合う爆発力のある演奏へと続く。中盤に披露された“˖嵐₊˚ˑ༄”ではハンドマイクで歌い、さらに“Death Metal Cheese Cake”ではデスメタルギターを弾き狂う君島の姿を観ていると、彼はこの数年間で様々な表現方法を解禁しながら世界に開かれていったのだと実感する。



Zepp Hanedaの最寄り駅の天空橋から乗った帰りの電車の中で、若い観客たちが「すげえ上手いよね!」と興奮気味に話していた。ライブが終わって後日、私は妻と食事をしながら君島大空の話をした。私が「君島大空は、彼の人生の中のかなり長い時間を音楽家としての鍛錬に費やしてきたんだろうなあ」と言うと、妻は「君島くんって友達多そうだけど、ものすごくたくさんのひとりの時間があって、そのひとりの時間を大切に過ごしているんだろうね」と言った。



このZepp Haneda公演は、3月9日の小樽GOLDSTONES公演で幕を開け、福岡BEAT STATION、Zepp Namba、Zepp Nagoyaと回ってきたツアー「春を前にしての歓喜の実践」のファイナル公演だ。ツアーのタイトルは、ジョルジオ・バタイユの著作『死を前にしての歓喜の実践』から取られたと思われる。君島は、合奏形態としては昨年暮れから今年はじめにかけて東名阪ツアー「笑う亀裂」を開催、さらに今年2月には君島大空トリオ(君島大空、角崎夏彦、藤本ひかり)で北海道ツアー「しゅかぶら」も開催するなど、精力的なライブ活動を行ってきた。東京で合奏形態のワンマンを行うのは「笑う亀裂」ツアーファイナルのLINE CUBE SHIBUYA公演以来約3カ月ぶりと比較的短いスパンでの開催となったが、スパンが短いからと言って同じようなライブだったかというとそうではなく、むしろLINE CUBE とZepp Hanedaはまったく印象の異なるライブだった。



今回は『音のする部屋』のリリースツアーなのだから違うのは当たり前だろう、と言われればそうなのかもしれないが、もっと本質的に君島の表現が新しい場所に辿り着いている、あるいは、より根本的な場所に回帰している――そんな感じがした。彼の最初のEPのタイトル曲であり、LINE CUBEではライブのほとんど幕開けに演奏された“午後の反射光”は、Zepp Hanedaでは演奏されなかった。これまでもそういうことはあったのだろうが、少なくとも今まで私が観た君島のワンマンライブで、“午後の反射光”が演奏されないのは初めてだった。LINE CUBEではセットリストが進むに従い端正な楽曲の美しさに息を呑む場面が多くなったが、Zepp Hanedaではライブが後半に進むに従い、何かが決壊して溢れ出る激しい音の渦に飲み込まれていくような感覚があった。“遠視のコントラルト”や“Lover”などは両公演で後半に演奏されたので、違いが顕著だった。LINE CUBEで聴いたこの2曲は手紙のようであり、Zepp Hanedaで聴いたこの2曲は叫びのようだった。



MCで言っていたが、春は体調が崩れやすいので、君島にとっては忌まわしい季節なのだという。体の不調というのは、なかなか他者に理解してはもらえない孤独なものだ。君島大空は孤独に向き合う表現者だ。「多」に紛れる怠惰に背を向けて、勇敢に「個」に向き合うからこそ辿り着く場所がある。自分という存在の奥底を覗き込もうとし続けるからこそ、交差する他者との視線がある。“沈む体は空へ溢れて”を演奏している最中、君島は、まるでなにかが抑えきれなくなったという感じで、ひとりステージ上の簡易ステージから飛び降りた。それを見た西田修大が「おまえが行くなら、俺も行くよ」という感じで同じように飛び降り、そして、「その景色を俺にも見せろ」と言わんばかりに新井和輝が続いた。石若駿は3人を支えるように、道筋を作るようにドラムを叩き続けた。西田、新井、石若の3人が、君島に「おまえをひとりにしないよ」と言っているような、美しい光景だった。君島大空合奏形態はこんなふうにして生まれたのかもしれない。




君島大空の音楽にもう1度改めて出会った。この夜、私はそんな気持ちになった。いつだって今この場所が果てであり、はじまりである。旅はまだ続くだろう。


文/天野史彬

写真/Kana Tarumi

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